7桁案件のフルリモートでフルフレックスな仕事を継続的に受注している20代中盤のフリーランスエンジニア
時間に縛られずに馬と生活する

初めまして。現役フリーランスエンジニアとして活動している、○○と申します。
私は現在、フルリモートやフルフレックスで7桁単価の仕事を受注できて、時間には縛られずに馬と生活をしています。
自分のことをあなたに知ってもらうことで、お役に立てれば嬉しいと思い、プロフィールを書いてみました。
あなたに真っすぐにつたわるようになるべく思いのままに書いていきます。
フリーランスエンジニアとして少しでもお役に立ちたいという思いから執筆

あなたに共有しておきたいことがあります。結論なのですが、この記事は少し長いです。
私もフリーランスエンジニアとして、どのような活動をしてきたかを具体的にあなたにお伝えしたいので、エンジニアとしての現在までの経歴が分かるように書いていきます。簡単な経歴は下記から画像でご覧下さい。


経歴をご覧頂きありがとうございます。実はこの記事にはもう一つ目的があります。
今、読んで頂いているあなたに共感してもらえるということです。
私と似たような境遇であるあなたに、
「一人だけじゃないんだ」
「励みになった」
「頑張る気力になった」
どのような理由でもいいのですが、私の記事を読んで頂けることで誰かの人生でプラスの方向に動いてくれれば嬉しいです。
ですので、経歴だけではなくあなたが今お読みのプロフィール記事では私のひととなりも書いていきます。
もし共感して感想を送って頂けたら、本当に嬉しいです。お待ちしております。引き続きご覧下さい。
私の口癖や性格、仲良くなりやすい人と苦手な人
高校卒業までは、学校があまり好きではありませんでした。当時の口癖は、
「学校行きたくない」
「休みたい」
が口癖でした。
現在は、
「なんとかなるでしょ」
が口癖です。後ほど、お話ししますが、高校卒業から現在までに何があったのか、今では心に余裕のある自分になれました。
でも、
「疲れた」
「眠い」
「おなか空いた」
は変わりません。
口癖からもバレてしまうかもしれませんが、基本のんびりでマイペース、周りと同調して動くことは苦手です。
お酒も大して飲めません。大人数で不特定多数な飲み会ではワイワイするのは好きではなく、もくもくと食べる係です。
ただ一人とか二人ぐらいの人数で遊んだり、長電話したりするのは好きです。
私が仲良くなりやすいと感じる人は、
- 言葉やしぐさが優しい人
- 少し大雑把な人
- 素直で、相手の立場に立って気持ちが考えられる人
苦手な人は、
- 言葉やしぐさが厳しめの人
- 口を出さなきゃ済まないおせっかいな人、評論家タイプの人
- 根性論を他人に要求する人
- 人に嫌な思いをさせても平気な人
最後の文章でも書きましたが、私が苦手なのは人を嫌な気分にさせる人です。人に対して迷惑をかけることは誰しもあると思います。思いやりがなく、自分勝手に誰かに迷惑をかける人が苦手です。
真面目で周囲を気にする性格が無関心に変わってしまったきっかけ
動物好きで人間が苦手

私は東京の下町で生まれ育ちました。
小さいころから動物が好きで、父に小さい頃は動物園や水族館に連れて行ってもらった記憶があります。
中でも馬に乗るのが好きでした。
ですが、子供のころから人は好きではありませんでした。
知らない人や怖い人が目の前に来ると後ろに隠れてしまうような子供です。
また、中学まではいじめられっ子だったので、学校に行くのがとても苦痛でした。
「体調悪くならないかな、そしたら休みになるのに」
口癖のときにもお話ししましたが、この頃の私は学校に行くのが嫌だったので、子供ながらにマイナスなことばかり考えていました。
親戚が学校の先生でもあったことから、不登校を簡単に承諾してくれるような両親ではありませんでした。親に学校に行けと怒られるのが怖くてしかたなく、学校に足を運んでいました。
いじめられたことを報告しても、親には「弱いのが悪い、もっと強くなれ」と言われておしまいです。
私自身を救ってくれたのは週末の習い事として、馬に乗りに行くのが唯一の楽しみでした。
インフルエンザにかかり長期で学校を休むときは、当時、これほど嬉しいことはありませんでした。
でも、馬に乗りに行ってはいけないと親に制限されてしまうので、その時は大泣きしたことも少なくありません。
今、あなたにお話をしていて、当時の嫌だった時の気持ちが鮮明に蘇ってくるぐらいです。
ここまでが、小学校ぐらいまでの私のお話です。実はこの時の将来の夢は
- 動物を守る獣医
- パソコンさえあれば出勤しなくても良さそうなプログラマー
既に現在働いている、プログラマーが将来の夢として挙げられていたのです。
夢の理由としては、
- なるべく人と関わる仕事が苦手だってわかっていたこと。
- 徒歩五分通学するのでさえ大変なのに毎日出勤なんか絶対できない
- あと、プログラマーってなんか格好いいな
子どもながらに1番目と2番目は現実的な意見ですよね。
さて、中学校になると、私の人嫌いがどんどん強くなります。
エスカレートするいじめで学校を脱走

制服のネクタイをトイレに投げられたり、参加したくもない罰ゲームに参加させられ殴られたり叩かれたりの学校生活…
小学校のときと同じく誰も助けてくれません。
いじめの辛さだけではなく、怖い先生が増えるし、地獄としか思いませんでした。
(土曜日も授業になったときは、当時の総理大臣をすごく恨んでいた気がします。)
授業中に消しゴムを何度も投げられていたとき、一つの考えが思い浮かびました。
「そうだ、なんで俺こんな奴らの言うこと聞く必要があるんだ?」
と思った瞬間、教室を飛び出し授業を脱走し学校中を騒がせました。
私は足が遅かったので、国語の先生に捕まってしまいました。
その後、親にも連絡がいきましたが、その時の先生の一言が衝撃的でした。。。
「もうちょっと早く言ってくれれば解決できたんだけどねえ」
こいつは人間じゃないのか?そう思い、彼らとは二度と関わらなくていいように、自分の家から遠い高校に進学しました。
県をまたぎ、別の高校にしたのは正解だったようです。すごく頭の良い優秀なキャラを演じていました。
頭は良くないのですが、中学の時の勉強は何とか頑張っていたので、学力が求められない高校に入ったらそれなりに優秀な扱いを受けました。
小学校四年生からドラムを習っていたので軽音楽部に所属し、一番目立つ演奏をドラムで演奏したとき、いじめられるだけの自分が、こんなにも評価されたのが嬉しかったです。
だから、新しい友達も増えましたし、初めての彼女も出来ました。このときは楽しく青春を謳歌していました。
ですが、高校二年生のときに事件が起こります。
募る人間不信、高校卒業はニートを避けるため慣れない仕事へ

最後の軽音楽部の演奏会では私の演奏したかった曲を演奏出来るはずでした。
私がいつまでに練習しておいてねというプランを提示したのですが、ほかのメンバーが守ってくれず、私が演奏したかった曲が出来なくなってしまったのです。
まず、歌えるボーカルがいないことが原因の一つでした。ボーカルをやってくれる人をその時に募ったのですが、だれも協力してくれず…
「自分がやりたい曲の時はやるのに、俺の時だけやってくれない!」
今まで自分のやりたいことは抑えていてがんばっていたのに…もどかしい気持ちになりました。
なりふり構わず、自分のやりたい曲が出来れば誰でもいいと思い始め、ボーカルをやってくれる人を募りましたが協力してくれる人がいないどころか、私が冷ややかな目で見られるくらいです。
私には事前の相談が無く、その時の顧問がボーカルを勝手に決めて大喧嘩しました。
最終的には私が怒られる始末(冷静な今では自分がやりたい曲のために、このときは、周りが見えていなかったなと思います…)
学生生活も色々あり成長しながら、高校三年生になると進路を決めなければなりません。
高校三年生は同じ学校の単位制コースといって課題をやっていれば第二土曜日だけ登校すればいいことになりました。
周りからのテキトーな言動に振り回されて、人間関係に疲れていたので、そのようなストレス過多な環境では獣医なんか目指せない。と思い決断しました。
人とあまり関わらなくても済む家や図書館に行きながら課題などを終わらせる毎日でした(正直バイトもしてなかったので、ちょっと早めのニート生活です。)
「やったー!これでたくさん馬に乗りに行ける!」
と、平日に大好きな馬に乗りに行きました。周りの人たちは私が高校生であることを馬術の関係者はみんな知っているので、なぜ学校に行っていないかを聞かれるのが苦痛でした。
「単位制だから、大学みたいな授業なんですよ。」
と周りをごまかしていました。好きな馬を一番に考えた人生ですが、勉強はしていました。
私は子供のころから考えていた獣医になる夢を目指していましたが、高校三年生の時の担任の先生が軽音楽部の顧問になりますが、ひと悶着ありました。
問題になったのは、私が大学に出す予定の書類を学力の悪さを理由に拒否されたことでした。受験する権利はあるはずなので、私としては勝手に拒否されるのはおかしいといえる立場です。
親に相談したのですが、あまり相談に乗ってもらえず、目指していた大学の一次受験が出来なくなってしまったのです。
「なんでもっと早く相談しなかったんだ」
と親に言われましたが、「いやいや相談したし…」
親から矛盾する対応を受けて、人間不信のバロメーターが更に一つ上がりました。
なんとか勉強し、二次試験で受かったところもあったのですが、この時点で人間関係と勉強が嫌になりました。
「高校まで行って、これからも大学という学校に行って勉強して、苦痛な人間関係を気付かなきゃいけないの」
未来の人間関係の苦痛を想像し、嫌になり過ぎて結局入学を辞退してしまいました。
私自身は高校卒業後にニートというレッテルを避けるかのように仕事をし始めました。
人生で初めての仕事とエンジニアを目指すきっかけ
うつ病、ADHD、パニック障害と診断

人生で最初の仕事はホテルでの接客業でした。
「なぜあのとき、接客業を選んでしまったのか…」
今でもそう思います。
当時、アルバイトからスタートするとき、接客しか求人に出てこないことと、ホテルマンがカッコいいって思ってしまったんですよね。
仕事で喜ばれれば楽しいのですが、ホテルマンの方には失礼かもしれませんが、19歳の私には仕事そのものは楽しくありませんでした。
ホテルの夜勤が終わったあとに、馬に乗りに行きましたが、正直疲れていました。
疲れた私の頭には、とある考えが思いつきます。
「そうだ、エンジニアになろう!そうすれば報酬も良いし、時間も自由だし、馬にも乗れる!」
当時、安月給の銀座のホテルマンを退職するきっかけとなりました。少し自分の中で考えをまとめて、もっと家から近かった新聞の販売店で仕事を選びました。
家から近い場所で働けばもっと時間が出来る。時間が出来れば、プログラミングスクールにも通えるし、お金も稼げるし馬にも乗れる。
良い考えだと思ったのですが、現実は甘くありませんでした。
馬術を続けていて、全日本クラスの馬の試合に出れそうかも?というところまで来ていたので、余計に頑張ることになりますが、それが後に悪い結果を生むことになります。
結論から、プログラミングスクールでは教えてはもらえるのですが、スキルは全く身に付きませんでした。
せっかく通った場所でプログラミングスキルを学んでも稼ぎ方が分からず、一回目の挫折でした。
また、私は好きなもののためには無茶な計画を立ててしまうのが大の得意でした。睡眠を二時間で頑張っている人の話を聞いて、
「俺も頑張らなきゃ」
と思い、睡眠時間が二時間のスケジュールを組みましたが、そんな根性も長くは続きません…
実はほかにも辛い点がありました。
昔から、何をするにも私はミスが絶えませんでした。
仕事でもミスして怒られてばかり。ドジな人っていうレッテルです。
ある時、ミスが絶えず、
協調性の無さと能力が周りと違いすぎることに違和感を感じ、ネットで調べたところ、
「大人の発達障害 ADHD診断」
というものに行き当たりました。
その診断をやってみると…
なんと!10点中10点すべて当てはまりました。
親には内緒で精神科に行き、検査してもらったところ、うつ病、ADHD、パニック障害と診断され薬をもらうことになりました。
今までの辛かった人生は、自分のせいじゃないんだ、と思ってほっとした自分がいました。
実は精神科から診断を受けたことを親に相談したところ、
「いつまでも甘えちゃだめだよ」
と言われたのですが、この言葉にがっかりしました。
「え、そんなこと自分が一番わかっているよ。母親なのに一つも慰めの言葉をかけてくれないの…」
その後、忘れてしまったのですが、後日に母に何かを指摘されたとき悲しみが抑えきれず、扇風機を投げて人生で一番荒い声を上げました。
私は大した反抗期もなかったので、ほぼ大人があんなに大声をあげ、マジ切れで扇風機を投げつけるのはさすがにびっくりしたようです。
当時を思い出すと人生での辛い記憶が、だんだん蘇ります。今思うと、精神的な病みがピークに近づいていました。
実家で部屋を片付けられないこともADHDを理由にして防御していましたが、親戚では邪魔者扱いされている気がしてなりませんでした。
ある日、車を運転していて、駐車場に車を止めると、いきなり涙が止まらなくなってしまったのです。
一人暗闇の中で声を上げて大泣きという異常な状況です。
私が泣き出したとき、一つの考えにたどり着きました。
「ADHDだってことを知られれば、優しくしてくれていたあの人もみんな煙たがって離れていくのかなあ」
考えれば考えるほど人が信用できなくなり、もはやこの世界が怖くなり涙が止まりません。
でもその時、いつも私のことを優しく迎えてくれる全日本に出場したパートナーの馬の顔が浮かびました。
馬と約束した、涙の決意

正直、馬にとっては辛い練習ばかりで、トレーナーにその馬を任せていたのですが、かなり無理な運動をしていたようで、治療が必要でした。
私が競技で点数を取れないからといって手放してしまっては、この子も辛い目に合ったらどうしよう。
なんだか自分と似ているような気がしていて、その子を手放す気にはなれませんでした。かといって馬のことを支援してくれるのは親です。まだまだ、私が管理出来ているわけではありません。親が支援し続ける状態では何かあった時にこの子を守れない。
馬を手放すことが怖くて、でも身近な人も誰も精神的に頼ることも出来なくなっていました。
そして、私なりに泣きながら四つの決意を固めていました。
- 人に期待しすぎていた、人に少しでも依存してしまう要因は排除しよう
- 他人はだますことを前提に生きている、もうだましてくるつもりで考えよう
- 自分一人だけで生きていける力を身に着けよう
- この子は絶対に見捨てない。生きる最後の最後まで幸せでいてほしい。また一緒に競技に出たい!
私は、心の中で馬である彼に強く約束したことを今でも覚えています。
四つの決意から私は、喜怒哀楽豊かな人間から、人に期待しないので怒りすらも無い、感情をあまり表に出さない人間に変わってしまいました。大事なとき、楽しい話以外を聞こうとしても頭に入ってこなくなってしまったのです。(調べて知ったのですが、本当に精神が追いつめられると人間は防御本能なのか性格が変わります。よく話題に上がる二重人格もそのような感じのようです)
このときに精神的にきつかったので、必要ない人から連絡が来ないようにしようとして、二台目のスマホを持ち始めました。
長くお話ししましたが、私がエンジニアになるための非常に大きな出来事をお話ししました。
次からは私がどうやって7桁単価の仕事、フルリモートでフルフレックスな仕事を継続的に受けられるフリーランスエンジニアになれたのかが分かり、面白いと思います。もう少しお付き合いください。
未経験からフリーランスエンジニアへ
無謀!?未経験でいきなりフリーランスエンジニアを目指す

新聞販売店で働いているとき、フリーランスでエンジニアになることを諦めきれていませんでした。
社員という選択肢はなく、フリーランスです。時間も自由でお金もそれなりにもらえる。私はフリーランスになるためにエンジニアとしてサポートしてくれる色々なスクールを探し始めますが、すぐに壁にぶち当たります。
「フリーランスのエンジニアは、正社員を経験してからでないと現実的に難しい」
いくつか調べたスクールはそのような解答ばかりでした。今思えば、それはそうですよね。
「未経験の経歴が無い人に誰が仕事を任せたいんだよ」と思います。
「技術を身に着けられるから入りませんか〜」という言葉をかけられても、自分はフリーランスのエンジニアとして稼ぐ方法も身に着けたかったので次の選択肢を探します。
ですが、この時転機が訪れました。
私が入ったオンラインサロンで同じく所属していたWeb制作会社の社長とつながり、今の僕の状況を聞いてもらうことが出来ました。
「一人プログラミングスクール立ち上げようとしている人がいて、教え子募集してたから紹介するよ」
と仰って頂き、迷わずお願いしますと返事をしました。
そのときにお会いした先輩エンジニアが私の師匠に当たります。
エラーばかりの苦難の独学

出会ったプログラミングの師匠は自分のパソコンでプログラミング言語が出来る方法は教えてくれたんですが、プログラムの文法が解説付きで書いてある10枚ほどのPDFを渡されただけでした。
「これで取り組んでみてどうしても分からないことがあったら聞いて」
その言葉のあとは、師匠の仕事の横でひたすらそのプログラムを同じように手を動かしてコードを写すだけです。
ただ、写すだけと思ったのですが思ったより大変でした。
書き写すだけでもエラーは起こるし、しかもなぜエラーが起きているかがわかりません。
最初は、どんどん質問して師匠に分からないところを聞いていましたが、あるとき師匠に言われます。
「問題解決力を身に着けないと今のその考え方じゃ技術は身につかない」
第一の生徒ということで、安くはしてもらっていたものの教わることがすべてだと思っていた自分は,
真面目にやっているのに自分の考えを否定された気にもなり、イラっとしました。
「うざい、もうこんな奴の言うことなんか聞いてられるか。PDFだけ持ち帰って一人でやってやる!」
と思って、エネルギーを写経に向かわせました。PDFをずっと写経していましたが、これが良い方向に向かいました。
プログラムと向き合い続けるにあたって、どんどんエラーも解消できるようになり、文法の知識も理解した上で頭に入ってきます。
もう後は何も考えていませんでした。ひたすらノイローゼになったかの如く、PDFとひたすら向き合い、学習をしました。(やりすぎでストレスになってしまい、パニック障害が再発しましたが…)
ノイローゼにまでなって学んだ文法の知識だけで何かできることはないかと思い、馬のエサの栄養価を計算するアプリを作ったことがありました。
アプリを作る工程なども教えてもらえるようになり、webでアプリを作ったり、ホームページを作ったりできるまでになりました。
ただ、もう一つ問題があります。
私は営業が大の苦手。やれることはやれますが、仕事がとってこれません。
営業できない問題にぶち当たったときに、師匠を紹介してくれたweb制作の会社の社長が、
「うちでしばらく働いてもいいよ。」
と言ってくれた流れで、仕事を振ってもらい私のフリーランスエンジニアとしての生活がスタートしました。
馬と生きるために単価を上げることを目指す

web制作会社からの仕事をしている最中、もう少し単価が欲しいと思うようになりました。
しかし、当時仕事を振ってもらってた会社では、25万と少しが限界とのこと。
働く時間は自由になりましたが、これでは正直、人と馬ともに食べていくのが精一杯です。
私は他のプロジェクトでの経験をすることを決めて、今までいた会社を離れることにしました。
別のプロジェクトを経験したいと思ったときに初めてフリーランスのためのエージェントを使いました。
実力不足で技術が無いことならまだしも、最初のエージェントは不当に単価を下げてこようとしたので、直ぐに断ってしまいました。次のエージェントでは、医療系PJ(プロジェクト)の募集があり、応募し見事採用。
事前に聞いたところによると、報酬も50万円ぐらいに上がる予定でしたし、参画を楽しみにしていました。
そのあと、私は愕然とすることになります。
ある案件だったのですが、ソースコードを見た瞬間愕然としました。
「これ、俺の知ってるソースコードじゃない。」
文章に例えるなら、全く改行していない作文や句読点や濁点が入っていない文章と同じです。
厄介なコードでしたが、私は頑張りました。
最初は月で180時間ぐらいと長めだったのですが、その後、稼働時間が250時間までになってしまいました。経済的に一人で馬を飼えるようになったものの、餌を放り投げるだけの最低限の生活になりました。
「これ、俺が思っていたエンジニアとは違う」
気づいたときにはもう遅く、私はもう自分のことをコマのように扱われるプロジェクトに嫌気がさしてきました。ここで単価交渉をしたところ、ある事実が発覚します。
高額過ぎるエージェントの仲介費用からの脱却

このあと、詳しくお話ししますが、単価交渉で私の参画費用から40万円ほど仲介費用として、とられていたのです。
単価交渉として、クライアント様が良いと言ってたので単価を上げるよう契約を変えてほしい。エージェントに頼みましたが、なぜかエージェントが動いてくれません。
「〇〇〇さんはまだまだこれからですから」
とエージェントには若さを理由としたもっともらしいことを言われますが、さすがにおかしいと思いクライアント様とエージェント同席の上で面談をしてもらったところ、自分の単価以上の仲介費がとられていたことが発覚しました。
予算が決まっているためエンジニアに支払う分が減ってしまうと、エージェントが損をしてしまうんですね。
エージェントが損をするだけなので、単価交渉の手続きを嫌がっていたわけですね。
駆け出しフリーエンジニアの私はまだ人間不信を抱えていました。
そのような中で、不当な扱いを受けたエージェントと接したので、私は携わっていたプロジェクトに残ることが出来ないと感じていました(自分の価値を見い出してくれているのはありがたいですが、エンジニアに対して尊重をしてくれないエージェントなのが理由です)
だんだんプロジェクトでの仕事に慣れてきて、仕事自体は続けたい気持ちだったので残念でした。
仕事の発注側は今まで以上の予算を出すことが出来ない、エージェントはこの単価のままで残るようにと一歩も譲らない。
交渉の席で私は思いました。
「今の自分の経歴であれば、他のPJでも全然採用される」
自分の中で自信があったので、御社が仲介として入っているなら私はこのプロジェクトを引きますし、そちらからプロジェクトを探してもらうことは二度とありません。
私が次のプロジェクトを去ることが決まるその時でした。
喜ばれる仕事をすれば自分の価値が上がり、仕事の幅も広がる
企業が評価し何が何でも居てほしいと言ってもらえる仕事

この時のプロジェクトは、下請けの会社がもうひとつあり、その先の会社がいました。
末端の会社が私の活動を評価していて、お金を出すからどうしても残ってほしいとのことでした。
私は、大変な仕事をしていたけど頑張ってよかったなと思いました。
そして、エージェントから私を購入するような感じで、正式に直接契約することが出来、単価も上がりました。
このきっかけを経て私は、PL(プロジェクトリーダー)やエンジニア採用の面接を担当するなど、仕事の幅が広がりました。(採用側の目線を経験できたのは私の力となりました)
評価されるフリーランスエンジニアが意識したい価値提供

私は評価された理由を自分なりに考えていました。
当たり前のことなのですが、
「価値を提供すること」
これを意識していたからだと思います。
価値を提供することとは、ここではアルバイトで何時間働いたとかそういうものではありません。
「どうしたら自分の技術をお客さんに喜んでもらえるか」
ということです。何十時間もシフトだけは入る。接客経験もある。マニュアル通りの仕事。
忙しいのにいつも通りの仕事の仕方。言わないと気がつかない。接客もお客さんを喜ばせようとしてないし無愛想だし、お客さんに何か頼まれても難しいことは「出来ません。」で終わり。
店長が忙しそう。自分には関係ない。自分だけの視野です。
逆に、少しだけしかシフトに入らなくても、仕事が出来る人って結構重宝されます。
自分に関係ないことは関係ない。ではなく、周りも見ながら動き、忙しいながらも定刻通り仕事を終わらせる。
一人目の従業員マインドよりは、明らかに二人目のマインドの方がフリーランスとして仕事に困らないのは確実です。なんとしてでも居てほしいと言ってくれる顧客をつかむことは難しいです。
(フリーランスの世界は雇用法など通用しないので、気に入らなければ契約を更新してもらえなくなります。)
お金を頂く以上、時間以外の喜ばれる仕事なりを提供をする。
自分の中で徹底していたからこそ、私は仕事の幅が同年代のSEよりも仕事の幅も広いと自信がありますし、技術もついてきました。
7桁単価の仕事、フルリモートでフルフレックスな仕事を継続的に受けることが出来たんだと思っています。
自分が行動を起こせば結果を出せる、フリーランスエンジニアとしての魅力

長かったですが、いかがでしたでしょうか?
実は、馬と約束した涙の決意をした時から、田舎で静かなところで馬とのんびり暮らすことが夢でしたが、それを実現して静かにのんびりした生活を送っています。(猫が二匹増えたのは予想外でしたが(笑))
今は昔と違ってやりたい仕事を選べる状況になりました。
しっかりとクライアント様に価値を提供をしている上で、のんびりのコンセプトから外れるような嫌なことや無理なことは極力しないようにしていて、「ごめん無理です」って言っちゃいます(笑)
私は辛い学習や経験をしてきたからこそ、
「ここはそこまで大切じゃないな」
「ここは大事だな」
学習する上でのポイントが分かってきました。
自分の教え子には良い意味で私のときよりも楽に効率よく、エンジニアになれる方法が伝えられていると思っています。(当たり前ですが、最初から楽して稼ぐではなく能動的な頑張りは必要です)
「〇〇さん、教えてください」という問い合わせがよく来るんですが、やはりどんな人か分からないと少し怖いんですよね。せっかく人間嫌いも解消されつつあるので、直接指導はすみませんとお断りしています(泣)
目標も達成してのんびり生きていたいので、知らない人のレクチャーまで受けてしまうと、動物と遊ぶ時間が無くなりますから(笑)
実はありがたいことに単価がそれなりに高くなってきたので、週のスケジュール全てをエンジニアとして稼働しなくても良いということに気が付きました。今まで作れなかった分、自分の時間をなるべく作るようにする方針です。(最近はクライアント様の許可を得てコーディング作業を自分が信頼している人に任せることもざらです。)
レクチャーは基本的につながりのある人経由でしか受け付けて来なかったのですが、そうやって教えることもいい勉強になりました。
この記事を通して、
「自分が行動を起こせば結果を出せる、フリーランスエンジニアとしての魅力」
を感じてもらえれば幸いです。
それと、もし良かったらこの記事を読んで私の過去の経験が励みになったらぜひ教えてくださいね~。
長文でしたが、ここまで読んで下さり本当にありがとうございました。
引き続き、3分で読めますので、仕事が途切れずに稼げるフリーランスエンジニアに必要不可欠な技術力も下記からご覧下さい。

